ヒトはいかにしてカミになるのか(50)

祟り神大物主 巨椋池と伏見(6)

前回あげた地震の数は約18年間で27回、そのうちの19回は安政年間に発生しています。
日付は主な地震(本震)が発生した日で、その数日前から前震があったり、余震が数か月つづいたものもあります。ほかにM6より小さい規模の地震もたくさんありました。

とくに大きな地震は下記のとおりです。

弘化4年3月 信濃・善光寺地震

死者1万人以上。善光寺の門前町で発生した大火災で参詣者が多数犠牲になりました。
数万か所で山崩れが起き、その土砂が川へ流れ込んで堰き止めていたものが後日決壊し、土石流が発生しました。
そのため被害は「地震責め、火責め、水責め」と表現されています。
5日後には、越後・高田地震が発生しています。

嘉永7年6月 伊賀上野地震

死者は1300~1400人。近畿から東海道にかけての大地震です。
家屋の倒壊、火災、ため池の決壊、液状化などが発生し、伊賀上野、四日市、奈良、大和郡山で特に大きな被害が出ました。
3日前から前震があり、本震の揺れもかなり強く、余震の数が非常に多かったと記録されています。

同年11月 東海、南海、伊予・豊後水道の地震

この3つの地震は、170年前に発生した南海トラフの地震です。
東海、南海につづけて、伊予・豊後水道でも地震があったことはあまり知られていません。
死者は3千人以上。東海道筋が大打撃を受け、大坂と江戸の間の往来が一時途絶しました。
開国条約の交渉中だった伊豆の下田も被害を受け、幕府は下田の復興のために一万両を費やしています。
11月5日の南海地震では、中国の江蘇省でも揚子江や井戸の水が揺れ、上海でも有感の地震だったという記録があります。

地震の直後に「安政」に改元されました。
安政2年9月末の遠州灘沿岸の地震は、東海地震の余震だと考えられています。

安政2年10月 安政の江戸地震

遠州灘の地震の4日後に発生しました。「安政の大地震」と呼ばれています。
江戸の支柱と周辺の揺れが大きく、地盤が弱い埋立地に建てられていた大名屋敷で家屋が倒壊し、大きな被害がでました。この場所は今の東京の都心にあたります。
大きなナマズを描いたかわら版が多数出され、鹿島神宮の要石が地震をおさえているという話も有名になりました。
翌年8月末には、東海から東北南部の広い地域で暴風雨による倒壊や洪水が発生し、江戸では地震よりも大きな被害が出ました。

安政5年2月飛越地震、3月安政大町地震

飛越地震は立山連峰の西(富山・岐阜の県境)、大町地震は糸魚川-静岡構造線の一部が震源域でした。
2月の地震で立山連峰の大鳶山・小鳶山で山体崩壊が起こり、常願寺川上流部が堰き止められました。土石流が流れ下る激しさは、岩石どうしがぶつかりあって火花を発し、川筋が明るく見えるほどだったと伝えられています。
3月の地震でその堰き止めが決壊し、巨石や流木を下流の扇状地へ押し流しました。
この地震で常願寺川は暴れ川に変わったといわれ、いまも砂防対策が続けられています。

南海トラフで発生した大きな地震を中心にしてみると、その前後には東海から関東・甲信越にかけての広い地域、それも南海トラフに近い太平洋側だけではなく、離れた内陸部でも、大きな地震がいくつも発生しています。
それは、昭和19年と21年に発生した南海トラフ地震のときも同様でした。