他化自在天と 怨霊になる方法(26)
菅公の子孫たち
菅公の子孫たちは、その後どうなったのでしょうか。とても気になったので調べてみました。
菅公には、男女あわせて13人(14人とも)の子がいたそうですが、経歴がわかる人は限られています。
昌泰の変のときには、菅公のほかにも12人が京から地方へ左遷されています。
その12人のなかには、下級官人としてはたらいていた菅公の3人の息子、高視(たかみ)、景行(かげゆき)、兼茂(かねしげ)が含まれていました。高視は土佐、景行は駿河、兼茂は飛騨へ左遷されました。
ほかに、播磨へ流されたといわれる淳茂(あつしげ)という息子もいました。京に残った家族もいたと思われ、菅公は大宰府へ…。家族はとおい土地に離ればなれになりました。
この境遇のなかで、2年後に菅公は亡くなってしまいます。
こういう状況から連想されて、「都からとおく離れた土地で、菅公の子孫たちが追手から逃れて隠れ住んでいた」という伝説が、のちに各地で生まれていったようです。
不幸な境遇におかれたものたちの苦難に満ちた伝説が創造されていくのは、信仰がひろまっていくひとつのかたちです。
実際は数年のうちに息子たちは京に戻され、その後も官人としてのつとめをつづけていました。
高視は京にかえされてから、左遷前の職に戻されました。その息子たちも祖父の菅公と同じ文章博士などをつとめています。
高視の息子の文時(ふみとき)は村上天皇につかえ、「その労は往古に無比」とまで評価されたそうです。
淳茂の孫の輔正(すけまさ)は、円融天皇と花山天皇の侍読をつとめています。
系図をみると、菅公の子と孫の代から菅原氏はそれまでよりさかえていっています。
北野や大宰府に奉仕して、菅公の霊を祀りつづけたのは多くの子孫たちでした。
高視の3代あとに孝標(たかすえ)がいて、その子定義(さだよし)の子孫たちが以降の菅原氏の嫡流となります。
定義の姉が、「更級日記」の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)です。
なお菅公の曽孫の為職(ためもと)は藤原道長の、孝標の孫の在良(ありよし)は藤原忠実の家司だったので、菅原氏と摂関家の縁が浅いものではなかったことがわかります。
中世以降、菅原氏は高辻・五条・唐橋・東坊城・清岡・桑原…と分かれていきました。
幕末期の元号の勘文にも、菅原氏の名前が残っています。
菅公の最後の願いがつうじたのか、菅原氏の家業は絶えることなく長く引き継がれていったのです。
この令和の時代にも、菅原氏の子孫たちが数多く生きているそうです。
菅公が怨霊になっても、その一族が没落したり断絶したりすることはありませんでした。