ヒトはいかにしてカミになるのか(45)

祟り神大物主 巨椋池と伏見(1)

今回から、奈良の三輪山に祀られる大物主神と、京の都の南にあった巨椋池(おぐらいけ)の話です。
「ミワのオオモノヌシ」は地球の祟り神の代表であり、その名は地球の全精神世界にとどろいていま
す。地球上の神々や悪魔のあいだでは、いちばん有名で高名な神は「ミワのオオモノヌシ」です。
その大物主神の盟友が、薬の神様として知られる少彦名神です。こちらもたいそう強力な祟り神で、令和5年(2023年)の末頃からさかんに活動をしておられます。

少彦名神の談
「これから人間は、怨霊よりもおそろしいものを見ることになるのだ。
ここに書かれたものにもそれを見るのだ。
覚悟をしておけ」

オオモノヌシのタタリであることを、当の大物主神が認めている事象のひとつが慶長の伏見地震です。

慶長の伏見地震

慶長の伏見地震は、1596年(文禄5年)うるうの7月12日深夜から13日未明にかけて起きた大地震です。マグニチュードは7.5と推定されています。
この年の10月に文禄から慶長に改元されたため、「慶長の伏見地震」とよばれています。

この時期の武家の政治の中心は、豊臣秀吉が伏見に築いていた指月城(しげつじょう)だったので、首都をおそった大地震だったといえます。
指月城があったのは、いまの京都市伏見区泰長老(たいちょうろう)の観月橋団地のあたりです。
地震の当日は秀吉本人も指月城に滞在していました。城は倒壊し、城内や城下では多くの死者が出ました。建造中だった東山の大仏(のちの方広寺)も崩壊しています。
京都の町や兵庫の有馬、明石にかけての地域で特に多くの犠牲者が出たという記録が残っていることから、今日では有馬-高槻断層帯が活動した地震だと考えられています。

大陸の明に攻め入ることをめざしていた秀吉は、天正20年(1592年)に朝鮮半島での戦(文禄の役)をはじめていました。この時期は停戦状態にあって講和をすすめていて、6月末にはすでに明の副使が伏見に到着していました。地震で倒壊した指月城は、正使を迎える講和の大舞台となるはずでした。
地震の翌日には、秀吉はすぐ近くの木幡(こはた)山にあたらしい城を築きはじめます。ふつう「秀吉の伏見城」と呼ばれているのは、指月城ではなく、この木幡山の城です。
そこには、平安京をひらいた桓武天皇のものと伝えられている陵墓がありました。

明の正使は8月に堺に到着して、9月に大坂城で秀吉と面会しています。間もなく交渉は決裂し、慶長2年(1597年)2月に慶長の役がはじまります。
慶長3年(1598年)の春に秀吉は体調を崩し、地震から2年後の8月18日に木幡山の城で亡くなりました。
遺言によって、秀吉の死をふせたまま朝鮮半島からの撤退がすすめられ、完了したのちの慶長4年(1599年)の正月に死が公表されました。7年間にわたった文禄・慶長の役の出兵数は、約20万人といわれています。
同じく遺言によって、子の豊臣秀頼は大坂城へうつり、木幡山の城には徳川家康が入りました。