ヒトはいかにしてカミになるのか(46)

祟り神大物主 巨椋池と伏見(2)

大物主神によると、この時のタタリの直接の起因は、指月城の建築にともなって文禄3年(1594年)から行われた巨椋池の埋め立てです。
この頃秀吉は諸大名たちに命じて、指月城と平行して大坂城の普請も行っていました。

巨椋池の場所は、現在発行されている地図には「巨椋池干拓地」と記されています。
池があったのは、そこが京都盆地でいちばん低く、山城の水が集まってくる地だったからです。
当時は大池と呼ばれていて、その広さは諏訪湖と同じくらいあったそうです。
大池には宇治川、桂川、木津川が流れ込み、合流した三川は淀川となって海へと流れくだっていました。
広くて浅い池にはたくさんの島が浮かんでいて、都に近い風光明媚な場所、貴族の別荘地としても知られ、岸は渡し舟でむすばれていました。
瀬戸内海のほうから見ると、大坂を経て淀川を舟でのぼっていく先には、京の港だった鳥羽がありました。船運の時代、大坂は京の玄関口でした。

秀吉の普請では4つの堤がつくられました。
宇治川が伏見の方向へ流れていくように槇島堤(宇治堤)が、伏見から淀へとおおきな舟を運行させるために淀堤が、さらに池を南北に突っ切って奈良方面へとつながる太閤堤と、大池堤が築かれました。
巨椋池は人間の手によって4つに分割されてしまいました。また工事によって、たくさんの神社や祠が動かされました。

「これをはじめ、羽柴秀吉の度重なる不敬には耐え兼ねると判断された」
のだと大物主神はいいます。
秀吉が京のまちなみをつくり変えたさいに、鴨川一帯に祀られていた多くの治水神をとりのぞいてしまったことも、不敬のひとつにあげられています。

伏見の地震の3日前の7月9日には、伊予(愛媛県)や豊後(大分県)を中心にした大地震も発生しています。こちらもマグニチュードが7.0以上と推定されています。
豊後の地震は伏見とおなじ12日だったという記録もあり、別府湾にあった瓜生島(うりゅうじま)が津波で沈んでしまったという伝説が残されています。
最初に伊予で大きな地震があり、つづけて豊後、さらに兵庫・伏見と、瀬戸内海をはさむ地域で大地震がつづけて起きていったのです。