祟り神大物主 巨椋池と伏見(3)
豊臣秀吉の文禄・慶長の役から徳川幕府の成立の前後と、明治維新から昭和20年の敗戦まで。どちらも日本国内で戦があり、海外出兵をした時代です。
この時代の象徴的なことがらと、巨椋池と伏見、大坂と江戸のあいだには深い因縁めいたものがあります。
その深い因縁の向こうに、日本という国につきまとうなにかがあるからです。
大物主神の談
「わし、戦争は大きらいだからな」
大坂と伏見の歴史
大阪市の中心部には、本来あるべき場所から移されてはいるものの、由緒ある寺社仏閣が今も残っています。
難波宮の北西にある大坂の地鎮の神・大将軍社(大阪天満宮摂社)、その大将軍社とのゆかりも深い坐摩(いかすり)神社、仏教伝来の故事と阿弥陀仏・浄土信仰の奥深さを伝える四天王寺などです。
大阪城公園付近の歴史をふりかえると、難波宮がおかれて、長く海からの都への入口、外国使節を迎える施設として使われていたようです。
その後は寺院の荘園などになり、源平合戦のころは大仏再建のための東大寺の別所が置かれていました。
戦国時代は、一向宗の本山だった石山本願寺がありました。その期間は85年ほどです。
石山本願寺と織田信長の戦いが、11年に渡った「石山合戦」です。最後は石山本願寺が降伏して紀州鷺ノ森(和歌山市鷺ノ森)へうつり、大坂の地は明け渡されました。
そのさいに、石山本願寺と周辺の寺町は火災で燃えました。
信長が石山本願寺の地を手に入れてから2年足らずで、本能寺の変が起こります。
信長の後継者となった豊臣秀吉が大坂に入ったのは、その1年後の天正11年(1583年)6月です。すぐに本丸や城下町の建設をはじめています。
秀吉は、それから7年後の天正18年(1590年)の秋に「天下統一」をしたのち、文禄元年(1592年)4月に文禄の役を、その年の夏には伏見の指月城の普請をはじめています。
翌2年(1593年)8月にお拾(のちの豊臣秀頼)が生まれると、秀吉は大坂城の普請にさらに力を入れるようになりました。
文禄3年(1594年)には巨椋池の工事をはじめていて、文禄4年(1595年)7月には関白・秀次が高野山へ追放されて切腹しています。
慶長の伏見地震はそれから1年後に発生しています。