祟り神大物主 巨椋池と伏見(4)
さきに見たように、秀吉の遺言で木幡山の伏見城は徳川家康の城になりました。
家康の時代の伏見城は、関ケ原の合戦の直前の慶長5年(1600年)8月に西軍に包囲され落城、炎上しました。
9月の関ケ原の戦いに勝利した家康は、まもなく木幡山に城を再建しています。
大坂城では、慶長19年(1614年)11月に冬の陣が起こります。「真田丸」が築かれたのはこの戦いです。
翌20年(1615年)5月には夏の陣が起こり、豊臣秀頼と生母の淀の方(浅井長政の娘茶々)、近従のものたちは自刃し、豊臣の大坂城は落城しました。
このときも大火災が起こり、その様子が京都の御所からも見えたという日記が残っています。
その後、家康の孫の松平忠明が城主になったのち、元和5年(1619年)7月に大坂城と大坂の町は幕府の直轄になり、東の江戸城、西の大坂城が将軍の城として置かれました。
大坂が幕府直轄になった年には伏見城の廃城が決まり、そのとき解体された伏見城の石材の多くは、元和6年(1620年)から築造された「徳川の大坂城」の材料として使われたそうです。
伏見城は元和9年(1623年)の三代家光の将軍宣下式のために一部が再建されたものの、式のあと完全に廃城となりました。
城跡は伏見奉行の管轄になり、桃の木が植えられ、やがて一帯は「桃山」と呼ばれるようになりました。いわゆる「安土桃山時代」には、まだ「桃山」ではなかったのだそうです。