阿蘇市一の宮町 国造神社の「手野の大杉」が語る
樹木はいかにして神木になるのか-神は死なず(4)
わたしは、永遠をもとめたわけでもありません。
ただ、気がついた時にはすでにそうであっただけです。
木々を伐るということは、そういうものを断ち切るという行為であることを、ニンゲンの方には知っておいていだたきたいと思います。
それはおそらく、わたしたち木々にかぎったことではなく、ほかの多くのもの、形として存在するもの、しないものを含めて、そのような行為をニンゲンの方たちは無意識に繰り返しているということにも、そろそろ気がつかれたほうがよいのではないでしょうか。
それは、あなたたちニンゲンの意識や身体が、そのように作り替えられて、新たに身体をあたえられて生まれる、というものとは、別の次元の主題のようなものなのです。
永遠を敢えて求めているのは、ニンゲンだけでしょう。
あたえられないものがあることを、悲しみ悔やみ、うらやむのもニンゲンだけでしょう。
あたえられないものは、存在していないわけではありません。
敢えてあたえられないものがある。それに意味がある。
そのことに、いいかげんに気がつかれてはどうですか?
(次回につづく)
2023.8.7記