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時平の妹 穏子

菅公の怨霊の事件で、時平の縁者として必ずあげられるのが、妹の藤原穏子(おんし、やすこ)です。穏子は醍醐天皇の女御で、保明親王の母でした。
このふたりが菅公のタタリによって亡くなったのは「時平の妹が嫁いでいたからだ」といわれてきた、その妹が穏子です。

醍醐天皇と穏子のあいだには、保明親王の死の数か月後に生まれた寛明(ひろあきら、ゆたあきら)と、その三歳下の成明(なりあきら)というふたりの皇子もいました。
穏子は菅公の霊をおそれ、寛明をみずからの手元からはなさず、灯も絶やすことなく、とても大切に育てたそうです。

延長8年(930年)の清涼殿落雷事件ののちに、醍醐天皇の譲位をうけて寛明が8歳で即位しました。朱雀天皇です。
天皇が幼かったため穏子も政治にかかわるようになり、きょうだいの忠平が摂政になりました。忠平は、穏子の意向もくみながら政務をおこなったといいます。

朱雀天皇は皇子にめぐまれず、天慶9年(946年)に弟の成明が即位しました。村上天皇です。
こうして醍醐天皇と穏子のあいだの皇子は、二代つづけて天皇に即位しました。
菅公が北野に祀られたのは、この村上天皇の御代のことです。
穏子は天暦8年(954年)に70歳で他界したあとも「大后」と称され、藤原氏のなかでも特別な存在として敬意をはらわれたといいます。

穏子の生涯は、「菅公がたたったのは時平の妹が嫁いでいたからだ」という言葉から連想されるものとは、まったく別のものでした。
菅公の子孫たちも史実からはなれて伝説化されていましたが、いったん悪役とされてしまった側に対してひとびとの想像がより一層たくましくなってしまう傾向があるのでしょう。

個人やその家を対象とした怨みや呪いは、当人だけでなくその一族や縁者にまでおよぶのが通例です。
やがて天満宮が摂関家の守護神となっていったことから、菅公が藤原氏や時平の縁者を特別にうらんでいたわけではないことがわかります。
菅公の子孫に藤原氏の家司となった人たちがいたことからも、両家の関係は悪くなかったと考えられます。
タタリの要因だといわれてきた穏子は、「摂関家の繁栄は菅公のタタリから」の最も重要な役割をになっていた人物でした。

大宰府への左遷ののち、菅公は家族と我が身をあわれんで、どうにもやるせのない思いのなかでそうなってしまった世の中を恨んでいた…。
そのことは、千年以上が過ぎたいまでも察せられるのです。