他化自在天と 怨霊になる方法(29)
讒言だったはず
菅公が左遷された原因は、藤原時平たちによる「讒言」だとされています。
讒言とは「人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって(目上の人に)その人を悪く言うこと」(広辞苑)です。
具体的には「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を次の皇位につけようとした」という内容でした。
このふたりは宇多法皇の異母兄弟で、醍醐天皇が兄、斉世親王は弟です。
斉世親王には菅公の娘がとついでおり、男子をもうけていました。
もし仮に斉世親王が皇位につくことになったら、菅公は天皇の義父になる立場にいたことから、変は起きてしまいました。
上の讒言の意味にあてはめてみると、
・誰かが菅公をおとしいれる目的で、事実ではないことを話した
・いつわって、目上の人(おそらく醍醐天皇)について菅公が悪く言っているように話した
ということになります。
菅公を含めて14人が左遷されたことから、斉世親王と菅公の周辺の人々を、政治の中心から排除する意図によって昌泰の変が行われたことは確実です。
斉世親王は、昌泰の変のさいに仁和寺で出家しています。法名は真寂といいました。
のちに円成寺へうつり、延長5年(927年)に42歳で亡くなっています。法三宮や円成寺宮ともよばれます。仁和寺も円成寺も、父の宇多法皇と特別なゆかりがあったお寺です。
親王と菅公の娘のあいだに生まれた男子は、臣籍降下して源英明(みなもとのふさあきら)と名のりました。祖父の宇多法皇が世を去ってからは、不遇だったといいます。
父の遺言により「慈覚大師伝」を完成させ、天慶2年(939年)に亡くなったといいます。
昌泰の変から30年も過ぎてから、保明親王、慶頼王、醍醐天皇が続けて亡くなり、結果的に醍醐天皇は位を去りました。
ここまで検証してきたように、「菅公のタタリ」とされているものは、かならずしも藤原時平やその縁者たちへと向けられたものではありません。
讒言だったはずが、「醍醐天皇を廃し」という部分は実現してしまった…のです。