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菅公の先代たち

ここで、菅公より前の世代の菅原氏のことをみてみます。
菅公の曾祖父の古人(ふるひと、ふるんど)は桓武天皇につかえ、天皇に儒学を教授したといいます。
その子のひとりが菅公の祖父である清公(きよきみ)で、若い頃は早良親王につかえていたそうです。古人の死後、家が貧しくて子どもたちが苦労をしたため、学問につとめることができるようにと、ほかの兄弟たちとともに衣類や食料を支給されたこともあります。

清公は成績優秀でした。最澄、空海らと同じ延暦23年(804年)の遣唐使として派遣され、唐の皇帝徳宗(とくそう)に謁見しています。
無事に帰国してから数年後には、清公は嵯峨天皇と漢詩を交わすようになり、やがて天皇がすすめていた改革のなかで重要な実務をになうことになります。
その後も淳和、仁明と三代の天皇につかえ、高齢になって歩くのがむずかしくなってからは牛車を宮中の庭の中まで乗り入れることが許されたということから、格別な配慮を受けていたことがわかります。

菅公の父、是善(これよし)も優秀な官人でした。
文徳天皇に皇太子時代からつかえた側近で、清和、陽成と三代の天皇につかえ、学問でも大勢の弟子をかかえたといいます。
清公、是善はともに従三位までのぼりました。
是善の兄弟、菅公からみると叔父の善主(よしぬし)は、承和5年(838年)の遣唐使として派遣されています。実際に派遣されたのは、このときの遣唐使が最後です。
菅原氏が代々、紀伝道(きでんどう)という中国の歴史や漢詩文を専門とすることになっていくのは、このような家の歴史があったからです。

祖父と父が残した業績だけでなく、菅公の経歴が出世につぐ出世、いくつもの職の兼任であったことから、本人もたいへん優秀な官人だったことがわかります。
大臣にのぼるのは皇族の生まれから臣下になった源氏と藤原氏だけだったこの当時、右大臣になって娘が天皇にとついでいたならば、それは妬まれたでしょう。
菅公は何度も職を辞したいという申し出をしていたのですが、それがゆるされることはありませんでした。
菅公が最後の願いを漢詩にたくしたことの意味は、菅原氏の家柄をとおして見るとよくわかります。