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怨霊・菅原道真

学問の神様として天満宮に祀られる菅原道真公は、西暦845年生まれの平安時代の貴族です。以下、菅公(かんこう)と呼びます。
菅公は、日本の精神世界から「公式の怨霊」としてみとめられています。その怨霊の期間を経て神様になったヒトです。
そのいきさつをおさらいします。

時は宇多上皇、醍醐天皇の御代。10世紀にはいってすぐの901年のことです。
左大臣藤原時平らの讒言(ざんげん)とされるものによって、右大臣だった官公が京の都から筑紫の大宰府政庁に左遷されたのは、年が明けて間もない頃でした。
901年が昌泰(しょうたい)四年であることから、「昌泰の変」といわれることがあります。
この年、菅公は57歳でした。菅公からみると、宇多上皇は22歳、藤原時平は26歳、醍醐天皇は40歳、それぞれ年齢が下でした。醍醐天皇はまだ十代です。

当時の菅公を取り巻く状況は
・上皇と天皇に重用されて複数の職を兼任してきた
・現職は右大臣兼右近衛大将
・天皇や皇太子と婚姻関係を結んでいる娘たちがいる
・菅原家の私塾で学んだ門下生たちが都に多数存在
というものです。

政治的に大きな影響力を持つ立場にありました。
そんな菅公をよく思わない人たちが少なからずいて、若い頃から誹謗中傷を受けるのも常だったようです。
それゆえに、大宰府に左遷されることになりました。

菅公が都を追われてからも、政敵たちはきびしい追手を差し向けてきたという伝説があります。
いまの鹿児島県薩摩川内市にある藤川天神では、大宰府からさらに落ちのびた菅公が、この地で亡くなったと伝えられています。
また熊本県八代市の五家荘にも、菅公の子孫が名を変えて隠れ住んでいたという伝承があります。