他化自在天と 怨霊になる方法(13)
託宣によって祀られる
清涼殿落雷事件によって、天から落とされる雷と菅公の怨霊がしっかりと結びつけられるようになりました。
この頃から菅公に対して、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神の呼び名が向けられるようになります。
他化自在天の「自在天」という号が入っています。
942年(死から39年、清涼殿落雷から12年)
託宣がくだる
「菅公を天満天神として北野の地へ祀るように」というお告げが、多治比文子(たじひのあやこ、奇子とも)という女性にくだりました。
しかし貧しかったため、家の近くに小さな祠を建てて祀っていたと伝えられています。いまの文子天満宮(京都市下京区)です。
この「あやこ」は菅公の乳母だったといいますが、「奇子」という字もあてられることから、巫女や霊媒のような女性をあらわしているのではないでしょうか。
さらに5年後の947年にも、文子にふたたび同じ託宣がおりています。
同じ時期に、近江の太郎丸という男の子にも同じような託宣がありました。太郎丸の父は比良宮の神職でした。
この神職や文子が、北野の朝日寺の僧とともに社殿を建てたのが、北野天満宮(京都市上京区)のはじまりだとされています。
こうして菅公は「神」として祀られるようになりました。他化自在天も
「人間に怨念をみとめてもらい、祀ってもらうまでにも結構な時間がかかりますから」
と語っていましたが、死から44年目のことです。
生前の菅公を直接知るひとたちは、ほとんどがすでに亡くなっていたでしょう。
人間は死後、霊になると一般に歳はとらなくなるので、あくまでも単純計算になりますが、菅公も103歳をむかえていました。