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菅公と藤原氏の不思議な運命

創建後の北野天満宮は「摂関家の守護神」になっていきました。
どういうことかというと、時平には二男の仲平、四男の忠平という弟がいました。長兄の時平が亡くなったあと、藤原一門の長(藤氏長者)になったのは忠平でした。みずから寺院を建てて熱心に祈願するなど、菅公の霊をとてもおそれていたようです。
百人一首の「おぐらやまみねのもみじばこころあらば いまひとたびのみゆきまたなむ」の歌を詠んでいます。

醍醐天皇が亡くなったあと、忠平は朱雀天皇の摂政と関白をつとめます。
子の実頼と師輔は、兄弟で左大臣・右大臣の地位を占め、師輔は北野の社殿を増築しました。
忠平の子孫たちは、菅公の霊をおそれると同時に、天満宮を家の繫栄の守り神としてもあつく敬ったのです。
そして師輔の子の兼家、孫の道長と、摂関の地位は忠平の子孫に引き継がれていきました。ふりかえってみれば、藤原氏を代表する摂関家の大繁栄は、菅公のタタリからはじまっている…のです。

とはいっても、どうしても忠平と比べられる兄の仲平も左大臣までつとめています。
藤原氏がおかれていた立場や環境は非常に特殊で、いまの庶民の感覚では理解するのがとても難しいです。

北野の天満宮がほど近い大内裏と平安京の守り神としても信仰されたこともあり、死から90年目にあたる頃には、菅公に左大臣正一位、つづけて最高位の太政大臣も追贈されました。
1004年には一条天皇が行幸されるほどになり、天満宮は栄えて多くの信仰を集めていきました。